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父が馴染ませてくれたこと

きょうは足の親指に、自然と力が入る。

たとえば秋葉原駅にある最高B級スポットのミルクスタンドで、おじさんに混じってあんパンとビン牛乳を嗜むとか。ちっちゃい頃に父が馴染ませてくれたことは、行動を起こすためのとてもとても大きな足がかりになってくれている。

年をとればとるほど最初の1歩目を踏み出しにくくなるというのは本当のことだと思う。(たとえ0.1歩でも)進んだ経験があれば、2歩目、3歩目へはスイスイいける。4歩目でわからなくなったら昔見た父の手本を思い出せばいいのだ。

「承認欲求」ってことで言うと、若者より、若者をターゲットにした広告プロジェクトの承認欲求はすさまじいものがある。若者に認められたいがために一生懸命すぎて、そして純粋すぎて見てられないくらい。

そもそも若者の承認欲求がよく叫ばれているけど、本当にそんなものあるんだろうか。みんなから注目を浴びたいとか認められたいとか。決まったとおりじゃなく、できることを好きにやってみたいだけだ。できることは案外多い。できないことも多い。

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出席とってるみたいだ

きょうはなんだか、地球に家賃を払ってもいい気分。

あれはこうだったああだったと解読できるまでには、時間がかかるんだ。急ぐ必要ないなと思った。ただしなんにもわかってないときの感想も貴重だと思う。

いつが本番で、いつが練習なのかを、
いまの仕事のなかで見極めていきたい。
初めて会う人が今ここにいることと、
一度会ったきり二度と会えない人が、
いつも自分を見ていることは、意識しておきたい。

〇〇放題に縛られてるなあと思うことがある、
読み放題のなかでしか読みたい本を見つけられない。
見放題のなかでしか、見たい映画を見つけられない。

アメリカ人になりきる休日が好き。職人になりきる休日も好き。

休日変身!!!!

変身することで自分がわかる。幽体離脱して俯瞰するみたいな。

道が先のほうまで続いて見えたんじゃなくて、実は、くもってた鏡が晴れただけじゃないかな?

毎朝、稲の写真撮りながらいっこいっこ確認するの、なんだかまるで自分が先生な気分で、出席とってるみたいだなと思ったって彼女に伝えてみた。

ぶん殴ってやりたいと言われた。

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“人々を引き付けるのは、あたらしく建てられたものだけではありません。勿論、利害関係者を引き付けるのは、あたらしい建物なのでしょうが、「かつての時間」は、どんなにお金をかけても買い戻すことができません。”

  • Future Report Vol.270

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一瞬ごとに思うこと

Homecomingsの可愛い音楽、可愛いアルバムジャケット、可愛いメンバー。
そのなにもかもがかわいいさま。

ヨーグルトのにおいがする。電車のなか。となりのじいさんから発せられているような気がしてたまらない。が、本当の発生源は正面の女性がたべているハイチュウだ。じいさんとヨーグルトなんて思ってもみない組み合わせ。しかしこのときだけは「年取ると乳っぽいにおいがするんだ」と思って、その仕組みを本気になって考えた。

普段からがんばっている感よりも仕事してない感のほうがどうしても強くて、だからこそ仕事量の少なさを指摘されると結構ズシッとくる。そのあと、いやいや、そこそこのいい仕事はしているぞと確認することで自分を守っている。

“ネットの中では日常的な付き合いがくり広げられています。そこで、雑誌的なコンテンツは必ずしも受けるとは限りません。日常的な場所で求められているのは「かっこいい」より、「ユーモア」です。そして、「たまに」ではなく「安定的に」です。”

もしも紙媒体の編集者がスタートアップするなら? — The First Penguin

一発勝負の現場から帰還した友人から連絡が届いた。
至らないところもあったけど、実のある期間になったって。

録画しておいた紅白歌合戦(2015)を繰り返し見返していて、見るたびそわそわするのが楽しい。今年はもう何度も年越ししている。見終わるとあけましておめでたくなるから、最後までは見ない。

何気なく見てるテレビとか、それらから、予想以上に学んでいると思う。
無意識に、カメラワークとはこういうものであろう とか。
どんな情報を受け取るか選ぶ時点でセンスが問われているってのは、
そういうことなんだろう。

どんなことを話そうか、どんなことを書いてみようか、そもそもなにを考えようか。

イメージだけしてまとまらずに、思いつきが思い思いに離散していくような状態が、ここ最近ずっと続いていた。仕事するほかはボンヤリするようにしていたから。
それでも一瞬ごとそのときどきに思うことはある。

唯一変えたことは、書くことで思うようにしたこと。
書かないときは思わないようにした。
もし思ってしまっても、どんなこと思ってたっけなんて思い出したりしないようにした。

いまは少しだけ道が、先のほうまで続いているように見える。

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またやれるかも

五〇音展のこと、NASのNことなかはらさんがこう書いてる。

嬉しかったのが、「こういう展示、よくやってるんですか?」「2日じゃもったいないです。またやってください」と声をかけられたこと。(中略) 嬉しすぎて、またできるように、全部のパネルをキレイにもって帰ってきちゃった。

NASは「ぼんやりと展示テーマがある→中身のアイデアが出る→しっかりテーマが決まる→作品つくる」こんな手順で展示をつくっている。普段から作品制作をしているわけではない。寄せ集めじゃなくテーマが先にあるから、3人でも違和感なく合うんだろう。実際は置いてみるまでバラバラで、合うかどうかもわかってないんだけど。

だから、NASの展示は、その場かぎりだ。
「昨日はどうだったかとか、 明日がどうなるかなんてことは、 考えちゃだめなんだ。 その瞬間に、燃え上がらなければいけない」岡本太郎の言葉。搬入のとき思い浮かべてた。(そういえばNASの3人で大阪旅行したとき、太陽の塔に会いに行って、根拠もなく「あー 太陽の塔って、なんだかNASに似合うかも〜」と思ってた)

なかはらさんがこうも書いてる。

芸術祭のときは「終わったー!もうやらないんだろうなー大学生活楽しかったなー切ないなー!」という気持ちでいっぱいだったのに、今回は、「またできるんだよなーそしたらあそこは改善したいし、もう少しこうしたいなーこういうのいれたら楽しそうだなー」と思っている自分がいる。冷静に。

大学4年のときの展示は「あー終わった終わった〜!」と心で呟きながら片付けてた。NASだけじゃなく、手伝ってくれた人も展示を見てくれた人もきっと「次はない」って思ってたことだろう。

ところが今回は、次の構想はあるんですか?だったり、来年の文芸フェスにも出るんですか?だったりをよくお客さんに尋ねられた。初日は思いもよらないことだったけど、展示のなかでだんだん自分も、これが別の場所だったら、また違う見せ方/見られ方になったのかもなーと思うようになった。

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五〇音展を、もし別の場所でもやるとしたら。

内容は同じでも、たぶんいろんなこと、また一から考えてみるんだろう。たとえば、みんながI love youをどう翻訳したかの結果発表。結果をただ結果として見せるかもしれないし、出し惜しむかもしれない。お客さんが書き込んでくれたノートは、NASにとって大事な大事な資産だからだ。

この資産をどんなふうに使おうか。どんなふうにみなさんの元へお返しできるだろう。こんなことを考えるだけで、五〇音展またやれるのかもなって、思う。

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五〇音展の翌々日に

ついに、とうとう、やっと?
最後までこのゆるかしこいで一度も告知することのなかった『五〇音展(ごじゅうおんてん)』2日間開催が終わった。仕事と仕事のすきまを縫って準備して、仕事と仕事のはざま(つまりは土日)で本番を迎えた。そしてまた仕事に戻った。

↑「文字を触る」作品。ゆるかしこい って並べればよかったな

仕事がなかなかうまくいかないなあと思い悩みながら展示のことを考えていた。冴えない日々のなかで作った展示はやっぱり冴えない展示になるんじゃないかと、実は少し不安もあった。チームNASという今まで一緒に展示してきたチームでありながら、今回は当日始まるまでどんな展示になるのかまったくわからなかったのだ。
ただ、自分の足りないところはメンバー2人が補ってくれた。NASの3人ではどうしようもないところは、優秀な協力者のみなさんが補ってくれた。当日までごまかしてきたところはやはり見破られ、悔しくなって2日目やや配置替えした。そうして少しずつ展示はよくなっていった。※初日には初日の良さがもちろんありました。
具体的なゴールやノルマは一切設定していなかったけど、チームNASの五〇音展は成功したと思う。それは、ご来場いただいたみなさんの声や、ノートに残してくれた感想でわかる。

こんなふうに楽しんでもらえたら、を上回る形で、こちらの思惑は大きく裏切られた。自分たちで作った空間にいろんな方々がいらして、かき乱してくださることで、予想だにしないおもしろさが偶然生まれるのがたまらなく嬉しかった。
たった2日間の小さな展示を見つけてくれて、ありがとうございます。新調してお配りした名刺にyurukashikoi.comも載せたのに、何も読む記事がなかったら申し訳なさすぎると思って、展示について少し書いてみました。
そういえば銀色夏生の詩集「偶然」を会場に置いていたんだった。翌日まで余韻に浸ったのち、次の偶然を準備しはじめる翌々日だーーとピシッと締めるつもりが、なによりもまず確定申告しなきゃならないし、それから熱も出てきたのだった。

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七草おじや作った

「粥はイヤだ」というので、おじやを作りました。

お雑煮用に購入した、まほうだしを使います。マジカルな出汁。

佐賀からやってきた七草。

左から、せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ(適当)

ちぎったり刻んだり。

まほうだし150ml、水150ml、白米3杯、七草をガーーー

弱火で少し混ぜる。「火、通ったな」と思ったら止める。

最後に溶き卵。醤油と塩で味を整える。

ひかえめによそって、グッチャグチャになるまで噛む。

このあと、9:55〜のテレビ体操をして、出かける。

こういうのが朝。

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ものを語ろう

2人で買ったものが増えてきました。
ようやく生活はできあがりつつあります。

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2人ぐらしを始めてから少し時間がたって、どう?と友人に聞かれたとき。
「自分の家だぞって感じがまだない」と答えていた。

暮らし始めてしばらくは、なんだか彼女の家におじゃましているようだなー、という感覚があった。
というのはおそらく、彼女が1人ぐらしで使っていた家具家電を新居でもそのまま使っていたし、それに実家暮らしだった自分があまり持ち物を持たずに引っ越してきたから。ものはできるだけ少なくと思っていたけれど、必要なものすらないうちはできないことも多かった。

ここに暮らし始めてもう11ヶ月たった。
部屋を見渡すと、見えるもののほとんどは2人で揃えたものだ。
今は、ここが自分の家だぞ、ここに自分たちの暮らしがあるぞーと言える。
揃えたものたちがそう思わせてくれる。
自分のものだと思い始めたときから面白くなる。何でもそうだ。

稼いだお金のほとんどを自宅で使うものに投資し続けた。ほとんど何もなかった部屋にものがやってくるたび、日々暮らしは面白くなっていった。するとまた投資したくなる。これを何回も繰り返してきて、最近やっと落ち着いた。

ついに生活(「生存活動」の略)のための戦力が整いつつある。
買ったものの分だけ、できることは増えた。
これからはこれらをどう用いるかだ。

新しい年、もののことをひとつずつ語りたい。

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期間限定が好き

期間限定は好き。一瞬しかない輝きが好き。緊張感がある。いつかはわからないがいつかは終わるというものがよい。終わりがはっきりとしていればなおよい。

Eテレ「ようこそ先輩」の日野晃博さん回で、小学生が「まだあと5分もある」といって教室を掃除し始めたのをおぼえている。大人なら5分間なんて時間があるうちに入らないですよねと日野さんは言った。それを聞いて、なんだ、大人のほうが余裕なのだ、猶予があるんだと思った。

子供よりも大人たちのほうがずっと未来があると思う。大人には選択肢がある。お金も時間もある。子供の頃は先のことなど分からなかっただろうし考えもしなかった。子供の頃に経験しておけばなあと思うのは今だからの話で、できることは限られていた。あれが限界だった。今できることをやるしかなかった。5分間に全身全霊をかけられるのは、子供には未来がないからだ。

大人は何でも持ちすぎる。いつまでも先のことばかり考え続けてどうする。本当の本当は、大人には余裕も猶予もないのだ。区切りをつけて今を終わらせなければ新しい次は生まれてこない。ゆるかしこいは1年後に終わろう。

原稿用紙

社会に出たら、中学生だった頃の自分に戻ってしまった

社会人2年目に突入した3月あたりから「アタシ、なーんでこんなこと(=仕事)に時間使ってるんだろ」と、思うようになった。仕事がヤダってわけじゃないが、なんかこう、もっと、やるべきことがあるだろう。犬と散歩するとか。朝、彼女と同じタイミングで家を出て、駅まで2人で歩いて、ものすごく天気のいい中、別方向の電車で仕事場に向かうなんて信じられない。途中まではまるでデートのようだった。浮かれるなよと誰かがいう。

目覚めているのに起き上がれない、身体が動かないという事態に、このまえ人生で初めて遭遇した。仕事に行ってはいけない!!と身体が訴える。やっと「これはやばいな」と思った。「おれ、やばかったんだ」と思った。

みずから選んだ生活の仕方ではあるが、どうしても立ち止まりたくなるときがある。「今日はムリ!さぼります!さぼっていいよー!」

この感じは、中学で野球部やってたとき以来だ。「やばいな」と思いながら、野球部の練習試合にどうしても行きたくなく、さぼって近所の神社で寝てた日のことを思い出していた。中学2年生だった。運悪く父が練習試合を見に行ってしまい、息子がいないことに気付き、捜索し、何かピンときたようで神社に向かい、息子を発見。無言で家に連れ戻された。家に帰ると父は、買ったばかりのプロ野球年間チケットをびりびりに破いたのだった。めちゃめちゃ怒られ、それからのことはあまり憶えていない。父、怒ってたけど、それよりもショックだったろうなあと実家を出た今思う。でも野球部、限界だったんだよね。

そして、わりと自由を感じていた高校と大学時代。父も「高校生になってからは、中学のときみたいにさぼらなくったよね」と事ある毎にいう。そこで思った。社会に出てから3年間は、中学の3年間みたいなものじゃなかろうか。

小学生のときから遊びで野球をやりだして、中学生になり本気の野球を始めた。2年間でやめた。うちの中学ってなんらかの部活に入る決まりがあるから、なんとなく好きなことをやるものだ。

これを今にあてはめてみると、こうなる。
大学で物書きの勉強をしていて、社会人になり仕事で書くことを始めた。2年目にして少々つらくなってきた。大学を出ると仕事しないわけにいかないから、せっかくなら好きなこと(できること)を仕事にしたいと思ったのだ。

高校大学の7年間が終わって、中学の頃と同じ「やばさ」を抱える社会人3年間が始まっていたのか。3年間のあとには、自由さのある7年間が来るのだとしたら。って、なんだか、こんな構造になっているような気がしてきた。どうだろう。反対に、中学はよかった、高校大学はつらかったって人は、さぼりたくならない社会人3年間を過ごせるといいよね。

原稿用紙

ピューロさを失った人間はおしまいだ

というタイトルの記事を、下書きのまま公開せずにいた。タイトルだけが下書き一覧に残っていてどんな内容のものを書こうとしていたのか、もう思い出せない。1月に友人とサンリオピューロランドに行ったから、その感想を書くつもりだったのだと思う(ピューロって、ピューロランドを作ったピュアなピエロの総称なのだそう。ソースは知恵袋)。

下書き状態のものを貯め過ぎるのはよくない。思い出せなくなるから。一方で、下書きしているのならまだましだ、とも思っている。一番よくないと思うのは、下書きにすらしていない出来事を、自分がいまだに憶えていること。これが一番、よくない。

僕は物覚えが悪くて、「ピューロさを失った人間はなぜおしまいか」なんてどうでもいいことのほとんどは忘れてしまうけど、ここしばらくのうちに考えたことはやたら憶えている。それらは、ただ「憶えているから」という理由だけで、なるべくなら書いておきたいと思う。書きたいことがいっぱい頭の中にある状態が続き、そのうち何も考えられなくなり、ああおれはこの状態が苦手だったのだと最近わかって、そこで初めて、長いこといるトンネルの出口が見えてきたような気がした。

すべて、忘れてしまえばそれまでのこと。頭をパンクさせてまで書きたいとなぜ思うかって、忘れられない出来事に恵まれているからだと思う(ことにする)。記憶を取り出すようにしながら、ここから一個ずつシェアさせていただきます。ピューロさを失わないために。

原稿用紙

Facebookは卒業文集のようで、作家のようでもある

後輩たちが(ほぼ)無事に卒業して新社会人になった。同じタイミングで自分たちは社会人2年目になった。友人の友人がお天気お姉さんになる裏では、仕事で付き合いのあった人から突然退職お知らせメールが来たりもする。あと、高校の放送部でお世話になり続けた顧問の先生が、24年続けた顧問を卒業したりもした。ショックというのとは違うけど、あの部に先生がいないとか、全然想像できないなあ。

去年仕事で「エイプリルフールネタまとめ記事」をやったあと、もう二度と4月1日が来ないでほしいと思ったのだった。そのせいで4月1日に対するものすごい苦手意識があって、そのことばかり考えていたら、ウソみたいに目まぐるしい変化が実際に起きていた。Facebookを開くと、あたらしいことが始まっていること、知り合いが新たな気持ちでスタートを切っていたことに気づいて、夕方ごろ愕然とした。「エイプリルフールどころじゃないじゃん!」って。これ去年も思ってたような気もするんだけど。

そんなわけで、このところ連日、
Facebookに素敵な文章が載る。

仕事でFacebookを使うせいで、後輩たちがこの4年間をとうとうと語るあの誠実な文章が、仕事中思わず目に入る。仕事中なのに、読みながらいつも泣きそうになっている。ある後輩のお母様が書いた文章はまるでさだまさしの詩のようで、むしろさだまさしに歌ってほしいくらいだ。あれ、大好きすぎる。

晴れ姿の写真もたくさん。あるとき「これ、卒業アルバムみたいだ」と思って、それでその、素敵な文章たちをいくつも眺めていたらこっちは卒業文集みたいだと思ったのだった。ふつうアルバムや文集は卒業生だけのものだから、卒業生じゃない自分が文集を覗き見しているかのようで贅沢な気分だ。

皆さん、本当におめでとうございます。
感謝しなければならないのはこちらのほう。
大好きで尊敬する人の文章ほど、最高な読み物はありません。

いま、作家の本を読むように、皆の文章を読んでいる。本当に文集にして、大事な本と一緒に置いておきたいと心の底から思う。あの作家の本が読みたいと思って手にとるように、あの頃のFacebookの文章が読みたいと思う。

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生活する惑星

きのうよる、月が低いところにあった。

月が低めの夜はとてもいい。とても、いい感じがする。おっ、おれ宇宙にいるな。宇宙のなかで生活してるぞ、オッ。いい感じ。

都市の夜は遠くのことを思慕するひまがないな。とにかく近い電気を見るばかり。星もないので、マンションと並ぶほど低めの月に宇宙の身近さを感じるのであった。北西の方角で、東京を脱出し埼玉越えるあたりで月に着きそうな具合に。

日本らしさを感じるのが「ディスカヴァージャパン」なら、これは「ディスカヴァープラネット」ではなかろうか。惑星にいながら月を見て、宇宙にいるみたーい!と ばかばかしく笑うのだ。忘れていたけどここはおれの生活する惑星だった。そうだったね。地球も宇宙も生活のすごく近くにあった。こうして生活って言葉の意味を広げていく。窮屈な生活などどこにもないのだよと言い聞かせたい。

らしさとは何であるかをまた考えてる。何が地球らしくて、宇宙らしいか。惑星らしさとは何か。自分らしさは考えなかった。からあげ弁当をたべる。あしたは米を炊く。

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人は、iPhoneを手にすると無になる

文房具屋で試し書きするのが好きって人もいれば、人の試し書きを見るのが好きな人もいる(自分はどちらも好き)。

量販店のiPhone売り場がアツい

ヨドバシカメラで新時代の試し書きを発見してしまいました。

iPhoneのメモです。これはやばいです、こんなに面白い読み物はほかにないです。面白すぎて写真撮ったら店員さんに怪訝な顔をされました。

もうこの、上の写真を見てもらうだけでいいんですが。
「俺は何とかなる。身長190cmだけど。了解致しました。
かしこまりたした。ですがなぜら(原文ママ)」

とても考えされられる文章。

身長190cmじゃ都合の悪い何かがあったのでしょうか…。「かしこまりたした。ですがなぜら」まで打って、入力しづらさに気づいてキレて途中でやめたのでしょう。しかも日付が2014年12月31日、思い詰めていたのなら早く家に帰るべきだったと思わざるを得ません。その後、この人が何とかなったことを祈っています。

画面左の文章にも注目したいところです。
「大きいけど、いい…」
素晴らしい意見だと思いますが、コメントを残す場ではありません。
「あはあは」
フリック入力だとしたら、これを試し書きすることによってこの人が得た結果は、きっと何もなかっただろう。
「片手入力はどこま…」
どこまで片手で入力できるかを試していたのでしょう。
だからといって、その疑問をそのままテキスト化する必要はないと思います。
「うんこしたい」
この人がトイレに行ったあとも、この文章は残り続けています。
「受験がんばるんば…」
落ちたと思います。

総じて、頭がまるで使われていない文章であった。

これを見て自分がなにを思ったかというと、現代人は思考より先に手先が動くというか、思うままをiPhoneに吸い取られているというか、あまりにiPhoneが快適すぎて、人はiPhoneを手にすると無になるのだなと思ったのでした。

クソツイートが世に溢れているのもきっとこのせいなのだと腑に落ちたのでした。

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ちょっと奥さん!甘酒は日本版飲むヨーグルトなんですって!

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凄いPOPを見た。〈日本版 飲むヨーグルト〉という言葉の破壊力が凄い(✕不可決 ○不可欠)。《渡辺直美は和製ビヨンセ》に似た表現である。

それにしてもオーマイゴッド。
甘酒は好きだけど、まさか日本版飲むヨーグルトだったとは。知らなかった。どうして今まで誰も教えてくれなかったんだろう。

とすると、飲むヨーグルトは日本のものではない、ということになる。今まで意識していなかったが確かにそうだ。ヨーグルトは元から日本にあったものではない、はず。マッサンのウイスキーがなかなか売れなかったように、飲むヨーグルトが日本人に受け入れられるには時間が掛かったことだろう。「ヨーグルトを飲むだなんて!」「カレーが飲み物だって話は小耳に挟んだけど…」苦労を挙げればキリがない。

すると逆に、飲むヨーグルトはブルガリア版甘酒(Drinkable yogurt is AMAZAKE Bulglia  version)ってことになるのだろう。

飲むヨーグルトが海外のものだなんて考えたことなかったから、ハッとしちゃったな。一人でも多くの飲むヨーグルトファンが、これを機に甘酒デビューしてくれることを望むばかりだ。甘酒の飲むヨーグルト割りなんていう夢のコラボがあってもいいと思った。

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北陸新幹線ができても、東京から人は出ていかないと思う

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北陸新幹線が開業した。
その裏でひっそり、上野東京ラインも開業した。
JR曰く、開業後は東京駅も品川駅も、もはや茨城なのだという。
大変なことになってしまった。

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(優秀な顔認識機能のおかげで、イバラキングメロンと鹿島神宮に挟まれた渡辺直美を発見)

こういった新路線が開通するとき忘れてはいけないなと思うのは、
開通によって、東京から地方へ行きやすくなること以上に、
地方から東京に行きやすくなるということ。
地方民が都市にもたらす影響は大きい。

ライブイベントにおける地方民の高いアクティブ性を、知り合いからよく聞いたりもする。地方民はとにかくよく移動する。それに比べれば、外へ出ていく都民の数なんて微々たるものなのだろう。

広告やメディアは当然「地方に出かけよう」と訴えるので、向う側から大量の人がやってくることは伝えてくれない。北陸新幹線も然り。(向う側の広告には「東京に行こう」と書かれているだろうか?)

東京駅も品川駅ももはや茨城だってメッチャ小さい字でポスターに書かれているけど、このことの本質を考えてみる。東京はどんどん地方っぽくなっていくし、地方は少しずつ(地方っぽくなった)東京に似てくるだろう。

真の狙いは、新路線で東京に人を集めたいってことなんじゃないだろうか。元からそっちを高く見積もってたりしてね。とはいえ、ポスターを見れば見るほど東京と茨城の距離はまだまだ遠いように見える。

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ものづくりする芸術は終わってる

いまの大学4年生は、震災直後に入学した代なんですよね。

そんな人たちがこの4年間をどう捉えたのか見たくて、ちょうどいいタイミングで後輩の卒業制作展があったので見に行ってきました。よくできた卒制にはその人の4年間と、社会的な4年間が見事に反映されていると思うのです。

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日本大学芸術学部写真学科卒業制作選抜展、です。
四ツ谷のポートレートギャラリーで今日まで。

写真学科の選抜展ってことで技術にまず目が行くんだけど、
それ以上に、9人が選ぶ題材が新鮮でした。
写真作品でありながら、
どれも物事の本質をとらえようとする試みであるように思えました。

写真そのもので一作品、というより、
その人自身が持つ大きなプロジェクト。
たまたまそこに用いられたのが写真だった。
そんなふうに感じます。

この方向性は、他大学の卒制でもいくつか見られました。
たとえば京都造形芸術大 村瀬なつみさんの「日本糠校社」。
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日本糠交社になにができるか?…わたしは日本の食に欠かせない、古来より生き続けてきた発酵に着目しました。その中でも最小の加工で素材そのものを食べること、四季や自然を楽しみ風味や香りを大切にする、といった日本独特の感覚と作法を感じ味わえるぬかを素材としたサービス、”ぬかばこ”を制作しました。これは従来のぬか床とは少し違っていて離れた相手と育てるぬか床です。現在の優れた配達技術にぬかを乗せ、やりとりをしていきます。日本糠交社からお客さまへ、お客さまからお知り合いに、そして交換日記のようにお客さまとそのお知り合いの間を行き来を繰り返すことで一人では作ることのできないムラのある味が生まれるのではないかと考えています。(日本糠交社

もうひとつ、武蔵野美術大 木村美緒さんの「norah cafe」。

norah cafe(ノラカフェ)は、畑と生きる祖母と、畑やそこで穫れる作物、祖母の料理や暮­らしを伝えたいという想いから生まれたカフェです。
ごはんという、生きる上で欠かせない存在のものを通じて、つくるひとと食べるひとを繋­げ、食の大切さ・かけがえなさに気付くきっかけとなるような「場」や「時間」をつくり­ます。

提出する時点で完結した芸術作品ではなく、これからも生き続ける芸術作品。
今までこういう卒業制作ってあったでしょうか?

これらをみると、やっぱり「芸術でものづくりする時代は終わってるんだな」と。それぞれが持つ社会的課題を解決する。それがこれからの芸術の役割だと、この4年を大学生として過ごした人たちが教えてくれています。逆説的ですが、この世の中に「社会的課題がある」ことも作品を通して伝えてくれています。

自分はこの4年で何を考えてきたか、
これから何を考えていくべきなのか、
そんなことを考えるために、今年の卒業制作はとても良い指標となると思います。超おすすめしておきます。

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成人男性、ひなまつりを楽しみたい

一個まえの記事がビックリとっても読まれております。ありがとうございます。今日はこういう記事です。また、通常モードに戻ってしまいました。

世間はひなまつり一色!
成人男性も祭に参入せよ

だいたいね、女性はいろいろ考え直すべきですよ。バレンタインデーなんておかしいじゃないですか。男性も楽しめるはずのイベントをすぐ女たちだけで独占しよる。同世代の若手バンドのライヴを純粋に楽しみたくても、女性たちのグイグイが恐ろしくて演奏をじっくり聞く余裕などありません。男たちが心から楽しめるイベントは消失してしまったのでしょうか? 男としての尊厳を失いながらスイーツ男子として群れるほか、生きる道はもう残されていないのでしょうか?

世の男性、今こそひなまつりを楽しむべきです。
気づいてしまいました。実は、女性たちはあまりひなまつりを楽しんでいません。幼少期に一通り楽しんでしまったからでしょうか。バレンタイン、クリスマス、ハロウィーンのような盛り上がりは一切見られません。ひなまつりらしさを感じられるのは人形屋とスーパマーケットの入口だけ。 街から聴こえてくるのは未だにミニモニ。の歌です。ひなまちゅりっていう。

社会どこを見ても女性女性女性、男性の憩い場は女性に食い尽くされ、もはや女性のいない場所でしか男性は輝けません。故にひなまつりこそ、男性が輝けるイベントのように思うのです。

しかし、いかにして男性がひなまつりを楽しめるというのでしょうか。

甘酒を飲みます。

ひな人形のコスプレをするとか、いきなりそういう俗っぽいことを考えてはなりません。長い目で見て、まずは甘酒を飲んでみるとか、三色団子や菱餅を食べてみるとか、正式な手順を踏むだけで充分ひなまつりに参入できます。成人男性ですからね。

僕は甘酒を飲みました。島根県浜田市の玄米甘酒と、金沢は福光屋の糀甘酒を飲みました。あつあつの玄米甘酒をモリモリ噛むのが最高にウマイです。

この時期、甘酒を手に入れるには絶好のシーズン。ゆくゆくはオクトーバーフェスト級のイベントになるかもしれません。いいですか? ひなまつりにはイノベーションを起こす余地が残っています。ブルーオーシャンなのです。いま男が参入すれば、数年後の3月3日には必ずや雄々しいひなまつりが開催できるはず。渋谷駅周辺はスゴイことになるでしょう。

次、「電器屋のiPhone売り場がアツイ」を書きます。

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2人ぐらしを始めました

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3月になりました。

いつもどおり日付が変わっただけですが、月が変わると少しばかり新しい気分になれます。なので一刻も早く2月が終わってほしいとずっと考えていました。2月が短くてよかったな。

2月はこのブログも#日めくりさだまさしもやりませんでした。甘酒や玄米も食べなかったですし、毎日見てたヒカキンの動画も見ませんでした。ほんと何もしませんでした(仕事だけは普段とちがうことができたりもしましたが)。

何もせず、ただただ、
生活ばかりを見つめていました。
じっくりと。

彼女と2人ぐらしを始めたのは、ちょうど2月1日からでした。あまり物が揃っていない部屋に2人でいて、これからここにどんな生活がうまれるのだろうとこの1ヶ月しばし想像をめぐらせていました。逆にいうと、それだけで精一杯になってしまったのですが。

今までいくつかの土地を訪れるなかで、毎度そこにある生活を見てきたつもりです。生活の仕方はじつに様々で「いかにして生活していくか」の選択肢は無数にあるのだといつも実感していました。

しかし同様に、この生活を始めると選んだ理由も、やはり無数にありました。ほかのどこにもない生活がいま目の前にあるのだと、日々の掃除や洗濯、食事ですら僕にそう感じさせます。

次になにが起こるか、今まで以上に予測がつきません。それでもなにか起きていることだけは見逃すことがないように。これからもこの生活を見つめていきます。じっくり。見つめながら書きながら、生活を2人で構築しながら、未来をたぐりよせていきながら。

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iPhoneを白黒画面化すると世界が変わるよ

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大きくなった新しいiPhoneや
どんどん解像度が高くなるiPadとか、
鮮やかすぎる大型テレビを電器屋で見て、
これはやばいなと思ったのだった。

それは、
あんまり良い意味での やばい じゃなかった。

ウェブは特に、情報量が多すぎる。
カメラ性能が上がれば上がるだけ情報量も増す。
SNSは、明るい色を求める傾向があると感じる。
わざと色鮮やかさを強めたり。
眩しすぎる画面に、たまに疲れてしまうときがある。

なので意識的に、グレースケール機能を使うようにした。
iPhoneとiPadにある、画面を白黒化する機能だ。
一応、Macにもある。

設定>一般>アクセシビリティ>グレースケール

もっと簡単な方法があって、
ホームボタンを3回押して白黒に切り替えることもできる。

アクセシビリティ>ショートカット>グレースケール

しばらく白黒画面を使うと、
いかに 色から情報を得ていたか がわかる。
「やってみたけど白黒は嫌だなあ」と思ったら
それは脳と体が色を求めているということだ。

情報を得るだけではなくて
色は感情をゆさぶることもある。
ついついスマホを見すぎてしまったり、
ゲームをやめられないのは、
白黒にすることでおそらく防げる。

自分はこれで世界が変わる体験をした。世界の絶景を画像で見るより、さっき隣を通り過ぎてった犬の毛並みのほうが素晴らしいと思った。変わったというよりもむしろ、世界が元に戻った といえるかもしれない。

絶景がどんな色をまとっているのだろうと想像するのもまた、良い。

冒頭のポップコーンは、こんな色でした。
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最近急にHIKAKINが可愛く思えてきた

大好きな動画があって。

無駄に広い部屋に
無駄にカラフルなソファが来て
無駄にそわそわする男の動画だ。

初めてこれを見たとき、涙が出そうなくらいHIKAKINのことを愛おしく思った。
かわいくて、かわいくてたまらない。
もう何度も同じ動画を見ている。

【スマスマに出たHIKAKINのボイパ字幕がめちゃくちゃ面白かったので書き起こし:ゆるかしこい】
これを書いた頃はこんなことになるなんて予想もできなかった。

YouTuberとしておよそ平均とはかけ離れた額の収入を手にする彼は、まるで近所の陽気なお兄さんのようで、SEKAI NO OWARIと同じソファに1人で座って動画を撮っている。

彼も部屋も、そしてこのソファでさえも、
少しばかり冴えていない感じがとてもグッとくる。
ソファについて一生懸命に説明する姿よ。

彼の生活は、みるみる豊かになっていく。
なのに彼はいつも1人、ぽつねんとしていて、
今日もカメラの前に立ち、健気にも私たちを楽しませようとする。
小学生による「おもしろい!」というコメントと、
大人による「クッソ寒い」という辛辣な言葉が飛び交う中、
HIKAKINの動画を見るたびに自分は
「よかったね、本当によかったね」と彼を褒めてあげたくなる。
最近は、健気さによく心を打たれるようになった。

困ったことに、どんなふうにHIKAKINへの想いを語っても、なぜか馬鹿にしているように読めてしまうのが心苦しい。ねえどうして すっごくすごく好きなこと ただ伝えたいだけなのに ルルルルル うまく言えないんだろうって、ドリカムの言うとおりだった。